各国での遺伝子検査利用状況と研究例

欧米諸国では、一部でジュニア選手の才能発掘目的に遺伝子検査を活用する動きが見られます。しかしその普及度は限定的で、科学者からは慎重な声が多いのが現状です。例えば米国では、民間企業Atlas Sports Genetics社が2008年にACTN3遺伝子の検査キットを発売し、「子供が瞬発系スポーツに向いているか持久系に向いているか判定できる」と宣伝しました。イギリスでも同様に、親や指導者向けに子供の運動適性を評価するDNAテストが紹介された事例があります。近年の調査研究によれば、実際に遺伝子検査を利用した競技者や関係者は一部存在します。例えば2018年の英国調査では、回答したエリートアスリートの17%とサポートスタッフの8%が何らかの遺伝子検査を利用したと報告されました。また2021年の複数国調査では、様々なスポーツ競技の選手の約10%、スタッフの11%が遺伝子検査を経験済みと回答しています。さらに2022年のプロサッカー界調査では、回答者(コーチ・選手)の10%が自身で遺伝子検査を試し、14%が所属組織として導入したと述べました。一方で、公的なスポーツ育成機関が公式に遺伝子検査を導入している例は限られています。イギリスでは指導者育成団体のUK Coachingが遺伝子検査企業と提携し、会員に検査サービス割引を提供するなど商業的連携も報告されています。ドイツを含む欧州各国でも、運動能力と遺伝子の関連研究は進んでいるものの、ジュニア才能選抜への直接的な活用については慎重な姿勢が見られます。総じて言えば、欧米のトップレベルのスポーツ現場でも遺伝子検査の利用は一部に留まり、多くの組織や専門家は様子見または否定的な立場を取っている状況です。

科学的に有効とされる遺伝子マーカーの妥当性と限界

スポーツパフォーマンスに関与するとしてよく言及される遺伝子マーカーには、ACTN3遺伝子(α-アクチニン3タンパクをコードし、「スプリント遺伝子」とも呼ばれる)やACE遺伝子(アンジオテンシン変換酵素の挿入/欠失多型で持久力との関連が報告される)などがあります。ACTN3遺伝子の変異型(R577X多型)については、2003年の研究でエリート短距離選手には筋収縮に関与するR対立遺伝子を持つ者が多いことが示唆され、R型はパワー系種目に有利とも喧伝されました。ACE遺伝子ではI型(挿入型)が持久系アスリートに多いとの報告が初期にありました。しかし、これら遺伝子の予測精度や有効性には大きな限界があります。まず、ACTN3やACEを含めスポーツ能力に関連すると提案されてきた遺伝子多型は200以上にのぼりますが、その多くは十分な大規模研究で再現・検証されていません。仮に統計的に有意な関連がある遺伝子があっても、その効果量はごく小さいことが知られています。例えばACTN3 R577X多型やACE I/D多型の効果は個人差のわずか「約1%程度」を説明するに過ぎないという解析もあります。要するに、これら単一の遺伝子が運動能力を決定づける割合は極めて限定的です。また、運動能力は多数の遺伝子と環境要因の相互作用で決まる多因子形質であり、遺伝子同士の相互作用やトレーニング・栄養など環境要因との関係もまだ十分解明されていません。実際、現在までに一貫して有効性が確認されたスポーツ関連遺伝子マーカーは非常に限られており、ACTN3やACEでさえ「傾向」を示すに留まり、予知ツールとしての妥当性は低いとされています。このように科学的エビデンスの面から、特定の遺伝子情報だけでジュニア選手の将来の才能を正確に測ることは困難だと結論づけられます。

数年前になりますが、私自身話題の遺伝子検査を受けたんです。自分なりには筋肉は付きやすいと思っていて、学生時代は垂直跳びなら誰にも負けなかったし、その一方で長距離はからきしダメ。だから「ACTN3 は絶対 R/R だろう」と高をくくっていたら、出た結果はまさかの X/X!

「遺伝子のタイプ=運動パフォーマンス」じゃないんだな、と身をもって感じています。

そのときの実際の結果がこれ↓

遺伝子検査がジュニア育成に与える影響(ポジティブ・ネガティブ両面)

遺伝子検査のジュニア育成への影響については、潜在的なメリットとデメリットの両面から議論されています。

  • ポジティブな側面: 遺伝的な資質に関する情報を得ることで、指導やトレーニングを個別化し各選手の特性に合った育成ができる可能性が指摘されています。例えば筋線維のタイプや回復力、傷害リスクに関わる遺伝的傾向が分かれば、トレーニング負荷や種目適性の判断材料になるかもしれません。また遺伝子検査の結果を才能発掘というより“才能包摂(Talent Inclusion)”に活用し、早生まれや成熟の早晩による偏見を補正して、本来有望であるジュニア選手を安易に見落とさないようにするという提案もあります 。このように使えば、身体的発達が遅い選手でも遺伝的資質を根拠に長期的視野で育成継続を判断するといったポジティブな効果が期待されます。将来的には数多くの遺伝情報を統合して潜在能力を引き出すオーダーメイド指導につなげる可能性もゼロではありません。
  • ネガティブな側面: 一方で重大な懸念も指摘されています。まず、子供に対し遺伝子検査結果で「向き・不向き」を提示することは、早い段階でレッテル貼りを行うことにつながりかねません。その結果、選手本人や指導者・保護者が才能開花を待たずに競技を諦めてしまったり、逆に「この遺伝子があるから大成できるはず」と過信して偏った練習を強いたりするリスクがあります。遺伝子検査による選別が行われれば、遺伝的素質が平凡と判定された子供が不当に機会を奪われるなど、公平性の問題も生じます。実際、科学的根拠が不十分なまま商業目的で過度に決定論的な宣伝が行われているとの批判もあり、こうした誤情報を信じた指導が子供の成長を阻害する恐れがあります。さらに、遺伝情報は本質的にプライバシー性の高いデータであり、未成年の選手に対する検査では本人の十分な理解と同意が得られにくいことも問題です。検査結果が将来にわたり心理的プレッシャーとなったり、遺伝的特徴の開示が差別や偏見につながる倫理的リスクも指摘されます。このように、遺伝子検査のジュニア育成への導入には慎重さが求められ、利益よりも不利益が上回る可能性が高いと考えられています。

スポーツ科学の専門家や組織の見解

国際的なスポーツ科学の専門家や主要な組織は、現時点でジュニアアスリートの才能識別に遺伝子検査を用いることに否定的です。2015年には各国の研究者(イギリス、米国、ロシア、オーストラリア、日本などの専門家)が集まり、ブリティッシュスポーツ医学雑誌にコンセンサス声明を発表しましたが、その中で「スポーツ遺伝学研究者の一般的コンセンサスとして、遺伝子検査は才能発掘やトレーニング処方に用いるべき役割を現状持たない」とはっきり述べられています。この声明は、近年台頭した子供の才能を謳う直販型の遺伝子検査ビジネスに対し、科学的知見が商業目的で曲解されていると警鐘を鳴らす内容でした。さらに「現在の知識レベルでは、才能ある子供や若年アスリートに対し、トレーニング内容の決定や選抜を目的として直接消費者向け遺伝子検査を実施すべきではない」とも明言されています。

また、各国のスポーツ医科学団体も同様の立場を取っています。例えばオーストラリア体育研究所(AIS)は「遺伝子検査は臨床医学では有用でも、競技パフォーマンスの向上や競技適性の判定にはエビデンスがなく、絶対的指標とみなすのは非科学的かつ非倫理的である」と公式声明で述べています。米国や英国のスポーツ医学コミュニティでも、現状でジュニア選手の選抜に遺伝情報を使うことは時期尚早であり、科学的裏付けが整うまでは控えるべきだとの意見が大勢です。国際オリンピック委員会(IOC)についても、青少年の保護と倫理の観点から遺伝子による才能スクリーニングを容認しない姿勢を示しており、各国のオリンピック委員会や競技団体もこれに倣っています。要するに、スポーツ科学の専門家のコンセンサスは「現時点では才能発掘目的の遺伝子検査は科学的根拠に乏しく推奨できない」という点で一致しており、むしろ慎重な指導と長期的育成の中で才能を見極めるべきだと強調されています。

倫理的・社会的懸念と科学面との関わり

遺伝子検査のジュニア世代への応用には、科学的課題だけでなく倫理的・社会的な懸念も伴います。上述のように科学的根拠が不確かな段階で検査結果に基づき将来を判断すること自体、子供の健全な発達を阻害しかねないため倫理的に疑問視されています。特に未成年者の場合、遺伝情報の取扱いはデリケートであり、子供自身が結果の意味を理解・同意しないまま第三者(親や指導者)が情報を利用する構図になりがちです。これは子供の自己決定権やプライバシーの侵害につながる恐れがあります。また、遺伝子検査ビジネスの多くは規制が追いついておらず、どの遺伝子を対象に何が分かるのか明確でない検査も多いこと、検査後の適切な遺伝カウンセリング体制が不足していることが問題視されています。実際、同一人物のサンプルを複数のDTC遺伝子検査会社に送ったところ結果が異なったという品質管理上の問題も報告されており、信頼性確保の課題があります。さらに、才能を巡る議論が遺伝要因に過度に傾けば、「恵まれた遺伝子」を持つ者が優遇されその他の努力や環境を軽視する風潮が生まれる懸念もあります(いわゆる遺伝子決定論への偏り)。スポーツは本来、努力や環境・指導によって能力を伸ばす機会が保障されるべきものです。遺伝子検査の乱用はそうしたスポーツの価値観と相容れない可能性があるため、社会的受容性という観点からも慎重な検討が求められています。

総括すると, 現段階でジュニア世代の才能発掘に遺伝子検査を用いることは、科学的にもエビデンスが不十分で信頼性に欠けており、専門家コミュニティも否定的です。その上、若年アスリートの将来に影響を与える重大な決定を遺伝情報に委ねることには倫理的・社会的リスクも伴います。将来的に研究が進み、複数の遺伝子情報を統合して有用な知見が得られる可能性は否定できませんが、少なくとも現時点では遺伝子検査をジュニアのスポーツ才能測定ツールとして安易に導入すべきではないというのが科学界およびスポーツ界の概ね一致した見解です。


参考文献・情報源: